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2011年3月11日 (金)

3・11ダメージ

3月11日(金)、この日のことは思い出したくないと思っていた。
10月18日現在、ようやく、この日のブログを書くことができそう。
当日は、朝から仕事で栃木県芳賀町の客先に入っていた。
この日は大事なプロジェクトのキックオフで、東京から関係者が何名もみえる予定になっている。
いつものように2階の大食堂で、お客様と打ち合わせしていた。
最初は、なんとも思わなかった。
あぁ、地震だ・・・
そう思いながらも打ち合わせを続けていた。
しかし、地震は収まるどころか、徐々に大きな横揺れになってくる。
それでも平気な顔をして、打ち合わせを続けようとしていた私に、お客さんAさんが『危ないから机の下に入りましょう。』と言ってくださった。
その時の打ち合わせメンバーは、両社あわせて5名だっと記憶している。
収まる様子のない横揺れに、全員が机の下に入る。
私も形ばかり、机の下に入った。
揺れはさらにひどくなり、机の足に両手でつかまっていても、外に放り出されそうなほどになってきた。
Aさんは、ちゃんと机の下に収まっていない私に場所を空けながら、『もっと入ってください、危ないですよ』と。
あぁ、Aさんてこんな良い人だったんだなと、改めて思った。
そのうち天井からバラバラとものが落ちてきた。
その数瞬後に一気に天井が崩れ落ちてきて、あたりが一面真っ白になった。
石膏とおもわれる白煙のなか、隙間から天井を見上げると1m四方以上の太さの柱が大きく揺れているのが見えた。
1m以上の振れ幅で柱の天井付近は揺れている。
気づくと、大きな揺れが来る度に、天井部の柱の付け根に亀裂が入っていくのが見えた。
ミシッ!、ミシッ!と大きく揺れる度に、その亀裂が柱の付け根を広がっていく。
あぁ、この亀裂が一周して、柱が倒れたら死ぬな・・・
そんなことを考えながら見ていた。
亀裂は、とうとう柱の付け根を一周した。
ここで死ぬのか・・・
痛いかな、痛いのは嫌だな・・・
覚悟を決めようとしていた。

ようやく、そこで揺れはおさまった。
周りのみんなが這い出しているのがわかる。
さすがにこの時は、他人を気にする余裕はないようだ。
幸い、軽いけがしかなかった。
ドカドカと私の頭の上をみんなが歩いて行くのがわかる。
どうも避難通路状態になっているようだ。
机から出たいのだが、次々に人が机の上を通るので、出るに出られない。
私は、身近にあったカバンから財布と携帯電話を取り出して、ポケットに詰め込んだ。
恥ずかしい話、カバンを持ってでると非難されると思ったからだが。
後日、持って出なかったことを会社で非難された・・・どうなんだか。

ようやく、私も机の下から天井材をかき分けながら這い出した。
黒のスーツが真っ白になっていた。
宇都宮でオーダーして作ったばかりだったのだが、もうだめかな?とか俗なことを考えながら。
割れた窓があったので、みんなそこから外に脱出していた。
次の揺れが来る前にと、みんな必死だった。

外に出て、ほっとしたものの、その後の余震も凄まじかった。
あちこちで何かが崩れる音がした。

その後は、安否確認に終始した。
暗くなった頃に、ようやく全員の安否が確認できたが、もちろん周囲は停電、私はともかく全員が帰宅することはかなわなかった。
そのため、その日はお客様の好意で、非常電源の設備のある建物で全員一泊した。

翌日、お客様のバスで全員が一度宇都宮駅側の事務所に入った。
午後から数駅先まで行けば電車が動くことがわかり、私の運転で全員をピストン輸送。
最後に私を含め数人が、その車で東京に向かった。

ようやく東京の自宅にたどり着いたが、翌日には宇都宮へ戻るようにとの指示があり、もう一人を乗せて再度車で向かった。
そこから独り、事務所で余震に怯え、自宅で余震に怯える日々が始まった・・・
胸が虚ろ、そんな感じだった。

Sn3d0275  Sn3d0276

写真は、戻った後に撮った、近所の建物。壁が綺麗に剥がれ落ちていた。

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